峡彩山岳会との交流

新潟峡彩山岳会は、昭和28年(1953年)に創設された歴史を持つ山岳会です

交流の始まりとその歴史は?

○昭和41年の大分国体に始まる
 当会々長であった坂口圭正氏が登山大会の宿舎にて、新潟県より参加されていた藤島玄氏の頭を蹴飛ばしたことから交流が始まったと伝えられている(藤島氏は新潟県の登山黎明期から登山を開拓して後進の門人を多く育てた山岳会のリーダー)。


互いに会の方針や性格などが近似していることから姉妹山岳会の話が進み、昭和41年7月の大峰連山縦走に新潟から4名の会員が参加され、記念すべき交流が始まった。以後、台風や会の事故などそれぞれの事情から延期や中止を繰り返しながら平成29年まで延べ33回の回数を数えている。


○地域の山を知る相互訪問の登山
 始まった第1回から第22回(平成元年)までは、奈良→新潟→奈良と毎年行ったり来たりを繰り返していたが、とくに奈良においては山域が限定されるため、実施場所が同じというマンネリ化を解消したいということから平成3年より、2年に一度の実施として、交代に担当することとなり、現在も2年ごとに相互訪問をする形態へと変化している。

どのように継承されているの?

○51年にわたり33回の交流山行が開かれている
別表は、過去の開催年と開催場所を一覧にしたものであるが、実に半世紀にわたって近くはない新潟と奈良の岳人の交流が続いていることは珍しい。現在、会員として在籍し第1回から参加している会員は奈良山岳会にはいないが、峡彩山岳会では在籍していると聞き及んでいるが、まさに半世紀にわたって交流の歴史が連綿と続けられていることは珍しく、他の会からも羨望のまなざしでみられている。


○交流によって得られたものは?


①他を顧みて新しい発見がある
 山岳会の活動は、ともすれば自らの価値観のみによって支配されることが多く、どちらかといえば排他意識が強い業界(?)といえないか。それだけに離合集散の例が多い。これは山屋としてのこだわり、実直性でもあり、こうした気概がなければとても厳しく何の得にもならない山行などやってられないのも事実である。ただし仲間として、改めて交流してみると当方にはない技術や習慣、そしてスタイルがあることに新鮮な感動を覚えることとなる。例えば2月の二王子岳、5月の飯豊本山の交流会でこうした多くの知見に接し、広く深い技術や考え方があることに驚かされた。とくにわが国で最も雪の多い地域の活動で長年培ってこられた様々な生活技術は当会の会員も積極的に学び吸収しなければならないと思う。


②もてなし、もてなされる事の喜び
 「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」と論語にあるように人生の最高の楽しみの一つは、仲の良い友とともに酒を酌み交わし歓談することであるというとおり、同好の志を持つ者が集まり山の話をしたり近況を報告し合ったり、技術を交換したりするのは、最大の喜びになるからだと思う。この交換会に参加した会員の多くは、次に迎えることに率先して参加されていることなど迎えること、そして訪問すること、いずれも人として素晴らしい体験を得させて貰えることなど交流の楽しみは大きい。


③一つの価値観から多様な価値観の新鮮さ
  山岳会に入会される動機の多くは、自らの知識や技術をもっと向上させ、山に関する世界をもっと広げたい ということが多いのではないか。そして山岳会で得た知識や経験が自らの山行に活かされ満足度を高めていく。更に山岳会同士の交流は、普段縁のない人や知識と出会えることがより自らの山行に新しい刺激をもたらせてくれる。交流を通じて新しい生活技術や用品の工夫など多様な考え方に目から鱗となった事も多い。山の技術とは実践的な習得でこそ身に付くことを感じさせられる。